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2日目快晴、3日目雪

皆さん、今日は3日目で雪でした。

 

昨日はアクシデントがありレポート出来ませんでした。

初日のランチで食べた物のせいか4人が体調を崩し、2人は朝から1人は昼から、もう一人は私で夕方からダウンしていました。

そのため、昨日のレポートが無いのです。

 

昨日は快晴で斜面のコンデションは最高、ー10度なので滑っていても寒さを感じるほど湿度も低かったようです。

斜面は最高に滑るのでちょっと油断するとスピードオーバーになります。

軸を中心に両足の円運動が試されるコンデションで各自が滑りの調整をしました。

 

午後は最高のトレーニングバーンです。

ブレーキングのショートターンから円を描くショートターンをテーマにしました。

スピードコントロールが出来なかった人が急斜面の最後までコントロールする滑りを見せてくれました。

夕暮れまで滑って人たちです。

 

 

今日は雪で午前は視界が良かったのですが、午後はガスも濃くなりレッスンでした。

Hintertuxの急斜面や氷河が露出しているアイスバーンをいかに攻略する遊びも取り入れて滑りました。

 

今日のランチです。

                           

  

 

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2018ヨーロッパスキーツアー初日

 

皆さん、今日はヨーロッパスキーツアーの初日でした。

 

羽田を出発し45分も早くミューヘンに到着、バスも快調で9時予定を8時前にバドホテル・キルヒラーに無事に到着しました。

今回の飛行機はルフトハンザ航空・羽田〜ミューヘン往復ともダイレク便です。

楽ですね。

 

初日のHintertuxは快晴です。

ここ数年運良く初日は快晴に恵まれています。

雪質は放射冷却されたハードパック、フラットな斜面が限りなく続いています。

本来、土曜日は午前中で起伏が出来てスピードが出しにくいコンデションになるのが、なんと夕方までフラットを維持していました。

 

午前の前半はコースインスペクションですが、コンデションが良かったので後半からはフリー滑走です。

午後は完全フリー滑走で結構滑りました。

 

明日も晴れ予報、月曜から火曜にかけて雪予報で水曜からまた晴れのようです。

火曜の雪が40〜50cmだったらコンデションに変化があり、中間駅まで滑れるようになるかもしれません。

 

今回は初参加の2人と現地参加1人、9人のお客様で残りに6日間を楽しみたいと思います。

 

 

小林平康

 

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お宝シリーズ−11 特集ありがとう小林平康

皆さん、1982年に私はデモを引退しました。

 

このタイミングでスキーグラフィック紙は私の特集を本紙に2号続けて掲載してくれました。

20ページほどの特集なので異例です。

実はこれまでスキージャーナル紙にお世話になっていたので、スキーグラフィック紙のオファーは断っていたのですが引退のタイミングで引き受けたのです。

編集長はじめ担当者の熱意はもの凄く私はタジタジだった記憶があります。

 

特集だったのでカラー写真を沢山採用してくれ、気に入った写真をご紹介します。

 

撮影場所は立山です。

12月の立山は自然が厳しく美しい山です。

大学時代は年に3・4回立山に籠もって合宿していました。

2年先輩の佐伯さんは当時立山・地獄谷にあった「房治荘」の息子にあたります。

 

立山は地形が変化に富んでいるので色々な方向に斜面があります。

したがって、撮影する場所と時間は朝日が昇って落ちるまで撮影できます。

モデルにとって過酷な場所(笑い)でした。

もちろんリフトはありません。

 

カメラマンはじめ編集の皆さんの熱意のせいかこちらも気合いが入り沢山滑りました。

雪質が最高のパウダー・光と影のコントラストが絶妙で、さらに斜面変化があるためスキー技術を見せるには世界でも類を見ない撮影場所です。

この時、立山には撮影チームが4組か5組いたと思います。

 

被っている「イカ帽」で時代が分かりますね。

スキーはカザマスキーの「GENESIS」私が基礎スキー界に転向するために作られたスキーです。

トップに5つの穴が空いています。

他のスキーと差別化するために採用された穴から、雪が「ところてん」のように飛び出してくるのを思い出す方もいらしゃるでしょう。

立山の雪は特別です。

風のない夜中に積もった雪は人間の身体が半分以上埋まるほどの柔らかさです。

しだがって、ターン中にスキーが40〜50cmほど埋まっているのでターン後半にスキーを浮かせて身体の反対に飛び出させるパワーが必要です。

このパワーが無いと深雪で大変苦労します。

下の写真はこのパワーと地形を利用して飛び出た瞬間を狙ってもらいました。

 

 

腰と足の位置を考えると飛び出した際、スキーを前方に「送り出す」動きがあり、この送り出しが深雪攻略の要で難しさでもあります。

現在は、ファットスキーである程度の技術で深雪攻略出来るようになったのでスキーの楽しみが倍増できたと思います。

 

皆さんも来るシーズンで、新雪・深雪に恵まれたら存分に楽しんでください。

 

この特集によって私の活動幅が増えてスキー技術を考える機会が増えました。

スキーグラフィック紙にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

 

 

小林平康

 

 

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お宝シリーズー10 Tシャツ

皆さん、お宝シリーズも10回目になりました。

 

5回ぐらいで終わると思っていたのが、こんなにお宝があり10回を数えるようになりました。

今回はDVD「ターンを極める」発売に合わせて作成したTシャツです。

 

 

このTシャツはお客様のT夫妻がチームコバ特の記念に上の写真の似顔絵を見つけてTシャツにしてくれました。

その時は、チームコバ特のメンバーだけでしたが、DVDの発売に記念になるものとして採用させてもらいおよそ100枚作成したのです。

このブログを見ている方もDVDとTシャツを購入して頂きました。

今でもキャンプでこのTシャツを見かけます。

本当に有難いことです。

 

似顔絵ですが、雑誌が出て私は初めて知ったのでだれが書いたかは分かりません。

T夫妻がこの似顔絵を見つけるまで私も忘れていたのですから、宝物を見つけてくれたT夫妻には感謝、感謝です。

 

 

似顔絵の元となったのはこの頃と思われます。

1976年にレースから転向した年です。

上の滑りの写真は多分「緩斜面パラレルターン種目」だと思います。

 

両膝とスキーの角付け角を見るとズラそうとする動きです。

こんな不自然な動きなので点数は多分240〜250点くらいでしょう。

高速系と急斜面種目は280点だったから異常ですね。

カービングターンばかりしていた私にとってズラすことは至難の業(笑い)だったのです。

当時は中里スキー学校でトレーニングと教師をしていたのですが、暇なときは一般コースを1日中プルークボーゲンしていましたが、カービングプルークボーゲンになっていました。(笑い)

 

文書の最後に関 健太郎新潟県コーチが私をフローしてくれています。

大変お世話になった関氏は親切で面倒見の良い方でした。

関氏が所属していた浦佐スキー場によく行きました。

浦佐スキー学校の皆さんにもお世話になり思い出が沢山あります。

浦佐が無くなってしまいましたが日本の基礎スキー界を牽引し、多くのスキーヤーを育成したスキー場であることは皆さんもご承知の通りです。

 

Tシャツ1枚ですが思い出が沢山あり、今でも着てくれる方々いることは私にとって光栄であり感謝の気持ちで一杯です。

 

 

小林平康

 

 

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東京オフトレ打上げ

皆さん、土曜日は東京オフトレの打上げでした。

 

天気に恵まれてオフトレーニングは順調に終了してから、新宿に移動し「リキマル」に再集合。

今年初参加の方が3人もいましたが、横の繋がり合ったので全員で盛り上がることが出来ました。

 

話題はやはりスキーで色々な情報交換が出来ました。

初参加の方はレッスン方法に興味を持っていて、常連の方が熱心に教えてたりアドバイスをしてくれました。

 

オフトレーニングは体軸を中心にした円運動(同調運動)を主体に行ってきました。

円運動と次の円運動を繋げ、さらに円をスムーズに描くキーワードが「前後運動・前後操作」になります。

昨日はそのための基本となるバランスと運動量を行いました。

バランスを取って円運動である前後運動はコンパクトに行うことを力説しました。

 

 

東京オフトレーニングはあと1回・12月14日です。

 

 

小林平康

 

 

 

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お宝シリーズ−9 先鋭スキー技法の原点

皆さん、お宝シリーズ−9は当時の基礎スキー界を牽引していたスキーヤーを特集した「先鋭スキー技法の原点」です。

 

スキージャーナル紙が1977〜79年にかけて3冊発行した本です。

77年は私は出ていませんが、78年鹿島槍スキー場、79年はオーストリア・キッツシュタインホルンで撮影しています。

スキーヤーは、関 健太郎氏、丸山隆文氏、藤本 進氏、平川仁彦氏、三枝兼径氏、山田博幸氏、村里敏彰氏、79年はオーストリアデモ・アルフレッド・アウアー氏、イタリアデモ・カルロ・デメッツ氏が出演しています。

 

私にとってデモの大先輩達と同じステージで滑れることに緊張しながら撮影に臨んだ記憶があります。

一人一人が個性的で自分の滑りに自信と信念を持っている人達です。

滑る前の各自の雰囲気はレースと違う空気が漂っていました。

性格もまちまちで行動も尋常ではありません。

編集を担当したスキージャーナル紙の皆さんは大変でした。(笑い)

 

鹿島槍スキー場では新雪や悪雪もあって、写真で見る以上の悪いコンデションを見事に攻略する滑を見ることが出来ました。

私が基礎スキー界に転向する前の時代のスーパースターだった藤本氏とはこの撮影で初めて会話しました。

実は藤本氏の滑りを1972年ごろのデモ選考会で見ていました。

私の姉が選考会に出場していたのを応援していたとき黒菱の斜面を軽快に滑っていたのです。

他の選手に失礼ですがスピードが遅いので退屈していた時だったので、姉に思わず「あれは誰」と聞いています。

藤本氏はただ者ではありません。

この選考会の最終種目はポールを滑る「制限滑降」

この時、私は制限滑降の前走をしています。

なぜなら、大会役員だった方から「小林前走しろ」と命令が下り従ったのです。

後から聞いた話ですが、私が前走するとき藤本氏の周りをオガサカスキーの写真が囲んで見せないようにしていたようです。

藤本氏は大変自尊心の強い方で自分より早い人を見るとそれより早く滑るようで、転ばすに滑れば優勝を確実なので目隠しをしたとのことです。

個性が強い方でしたが二人で話しているときは、優しく何故か私を可愛がってくれました。

 

この本のおかげで大先輩はじめ沢山の方と知り合いになりスキー界で活動するキッカケになりました。

また、撮影中の思い出をいつかはご紹介する機会を作りたいですね。

 

 

小林平康

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お宝シリーズ−8 遅いものは 安全ダーー

 

皆さん、お宝シリーズ−8は以前ご紹介した私のサインです。

 

1970年80年代はデモ、コーチ、そしてスキー教師をしながら全国各地に出張し大勢の方々とお会いしました。

その際、サインを依頼されて書いています。

ほとんどが「速いものは 美しい」です。

 

「速いものは 美しい」の言葉の由来は、大学時代に日本人初のアルペンスキーの銀メダリスト・猪谷千春氏の講演を聴いて感銘を受け5年ほど経過して考えついたのです。

猪谷氏はアメリカに留学中、学業が忙しくトレーニングの時間が無いためスキーの成績が落ちてしまい、自分を取戻すため誰よりも美しく滑ってアピールした結果、スキーの成績が伸びてメダリストになったそうです。

 

講演での話は私の中で熟成され「速さ」と「美しさ」のキーワードとなりました。

大学、カザマスキーとレースを続けていたとき、私よりパワーのある選手、テクニックが優れている選手が周りにいました。

パワーやテクニックで対等に戦っては叶わないと感じていた時、「美しさ」は常に頭の中にありました。

また、速さの象徴となる戦闘機やスーパーカーなどは、無駄を省き極限まで速さを追求した形は美しく憧れでした。

 

デモに転向した頃は、キーワードの「速さ」「美しさ」はどちらも私の滑りを表現するのに欠かせないものになりました。

サインを頼まれる頃にどのような言葉を利用するか悩みましたが、最終的は「速いものは 美しい」に決定しました。

 

 

写真は私にとって大切なお客様の一人Wさんに書いた私のサインです。

「遅いものは 安全ダーー」

この言葉の由来もあります。

以前ご紹介した八海山の平川氏が「速いものは 美しい」を掲げていた私に皮肉交じりに「遅いものは 安全だ」と話したのです。

この言葉を聞いてこのワードをいつかは使えないかと虎視眈々に待っていました。

 

Wさんとは長い間柄なので性格やスキー技術は熟知していました。

毎回レッスンに参加すると最初は良い滑りを見せてくれます。

アドバイスすると真剣に考え込むタイプでだんだんスピードが落ちてしまいます。

虎視眈々だった私はここぞとばかり「遅いものは 安全ダーー」 サインしました。

最初はWさん、ガッカリだったようです。

しかし、このサインは2回か3回しかサインしていません。

貴重であるかは人によって判断の違いがあると思いますが、サインした私にとって貴重で思い出深い出来事でした。

 

Wさんはキャンプ中の「コババー」の生みの親です。

月山キャンプが始まった頃、朝から夜のミーティングまで働いているスタッフに気遣い、ミーティング後はお酒を飲める場を提供してくれればスタッフは休んでください、と言ってくれました。

これが「コババー」の始まりです。

「コババー」によって知らないお客様の間に和が生まれたのです。

この和によって今でもキャンプに参加してくれるお客様が意外と多いのです。

Wさんは私にとってお客様でありスキー仲間の一人です。

 

 

小林平康

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ヒンタートックスと飛行機

 

皆さん、今日は今月16日に出発するヨーロッパスキーツアーの準備をしている際に見つけた面白写真を紹介します。

 

毎年行くヒンタートックスで昨年、写真撮影しているときに突然轟音、上に飛行機2機、それもクロスするアクロバット飛行です。

20回目のツアーでしたがこんなシーンは初めてでした。

飛行機の下に写っている緑色の現地人二人もビックリしています。

 

拡大すると飛行機はプロペラ機です。

同じグレーのペイントなので軍用機です。

この間隔と高低差でスレスレでクロスすると思うとゾーーとします。

 

スキーでもフォーメーションをするときスキーとスキーが触れ合うほど接近するときがあります。

思い出すのは野沢インタースキーの時、私はコーチだったのでデモのフォーメーションの時は、最高のスピードで最高の技術を見せろう、と言って無理難題をデモに要求しました。

なぜなら、相手に合わせようとするとスピードを落とし相手のリズムにしようとして最高の技術からかけ離れた滑りになるからです。

 

オーストリアの伝統でデモがインタースキーで見せるフォーメーションはスレスレではありません。

スキーがぶつかるので飛んでクロスするのが当たり前です。

クロスする瞬間は切り換えのタイミングなのでほとんどエアーターンです。

これを日本のデモにも要求したので私はだいぶ嫌われました。(笑い)

 

上の飛行機もオーストリアのデモも半端なくクロス好きですね!!!!!!!!

 

 

小林平康

 

 

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スノーメンバー受付開始とコメント

皆さん、11月に入りましたね。

 

各地から雪の頼りが届きシーズンが近いことを感じる季節になりました。

中里スキー学校は11月1日からスノーメンバーの受付を開始し本格的な準備をしています。

スノーメンバーに加入したい方はご利用ください。

 

この頃、皆さんから今年の雪はどうですか?

と、聞かれます。

毎年の会話ですがこれが季節を肌で感じるフレーズとなっています。

 

事務所に問い合わせで12月何日に行きますがレッスンは受けられますか?

年に2.3回同じ問い合わせがあります。

答えは、雪があれば受けられますが無いと受けられません。

と、返事しても納得しない方も時にいます。

皆さんは、ご存じでも人工雪と天然雪の雪事情を知らない方もいます。

このような雪や冬を知らない方が、私たちスキー学校やスキー業界を支えてくれているので納得するまで説明しています。

最後は、あーなるほど。。。と言ってくれます。

この会話が出ると準備が遅れている私は慌ててしまうのです。

 

 

 

コメントについて

ブログに変わってから1ヶ月経ちました。

記事を書くのは分かってきましたが、写真を載せて配置するのにまだ悪戦苦闘しています。

すでに長い記事を3回ロストしました。(笑い)

 

この頃、以前の掲示板とブログの大きな違いを感じています。

掲示板は双方向でしたがブログはどちらかというと私からの活動報告やお知らせだけになっています。

そこで皆さんに「コメント」を利用して頂きたいのです。

タイトルの右横にcomments(0)コメントを投稿する

があり、コメントを投稿するを選択しここから皆さんの意見や活動報告などを載せることが出来ます。

ただ、コメントを投稿してもブログの表面に出てこないので見るにはブログ上部にある「コメント」かcomments(2)を押して見ます。

 

すでに利用している方やご存じの方、また知らない方にぜひコメントを載せてください。

以前は皆さんがコメントと写真を同時に載せられましたが、ブログは写真が直接載せることが出来ないようです(詳しいことが分かりません)

記事や写真をブログに載せたい場合は、皆さんから頂いたコメントと写真を私が代わりに「誰々さんからのコメントと写真です」

とブログに載せますのでぜひご利用ください。

 

 

小林平康

 

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お宝シリーズ−7 1975年苗場WC・SL

IMG_9209.jpg

皆さん、古い写真ですが1975年苗場WC・SLの写真です。

 

苗場では1973年日本で初のアルペンWCが開催されました。

両大会4レースに参加していますが思い出に残っているのが写真のSLです。

この日は大雪でSLの斜面の除雪が大変だったため女子コースに変更になり開催されました。

天気が良い日だったのでセーターに無帽、ゴーグル無しでした。(笑い)

新雪が降って硬い斜面に覆われていたので30cmほど掘れるコースコンデションです。

滑っている場所は急斜面の後半で確か2本目だったと思います。

1本目は掘れているコースのリズムに乗って滑ったので思ったより良いタイムでした。

資料が無いのでタイムや1本目の順位は分かりませんが、気分良く2本目に望むことが出来ました。

 

使用しいるスキーは先日紹介したカザマスキーがアメリカで作らせた「ハニカムスキー」です。

どんなアイスバーンでも横ズレしにくくスキーを縦にして滑れるスキーでした。

2本目のインスペクションしているとき、私の上にオーストリア監督・トニー・ザイラー氏がいて私のスキーを興味深く覗いていました。

私にとって、また世界中のスキーヤーの憧れトニー・ザイラー氏がそばにいたのでコース脇にいた知っているカメラマンにこっそりツーショットの写真を撮ってもらいました。(笑い)

 

ブーツはカベールの「コンペS」世界の名器はどんなコンデションでも私の意思をスキーに伝え、雪面から受けた情報を的確に教えてくれた私の分身です。

 

ウェアーはデサント、当時はナショナルチームウェアーが無かったので各自がメーカーのウェアーを着ていました。

写真3枚目はポール(竹ポール)に左腕が当たっています。

ポールに当たる場所は上腕真ん中の外側1点です。

右腕も同じ場所でガードするものが無かったので皮膚が破けて穴となって血が出ます。

他の選手も同じで何とかして防ごうとしてスリッパを付けたこともあります。(笑い)

今年からWCは日本ナショナルチームウェアーが統一されたようですね。

 

皆さん、お気づきと思いますがスキーの先端に着いているのが当時日本で流行していた「パラブラック」スキーのクロス止めです。

懐かしと思われる方もいると思います。

 

 

 

 

DSC04141.JPG

 

1本目に気持ちよく滑れたので2本目はリズムに乗ったら理想のラインより内側狙う作戦でした。

急斜面に入る前でリズムに乗れたので急斜面に思いっきり入り内側を狙いました。

急斜面から中斜面の移行部分もラインより内側に入ってゴールでした。

トータルで22位、日本開催だったので出られたレースの成績ですが私にとっては人生最高のレースでした。

 

この大会で柏木正義選手(柏木デモの父親)は10位に入り日本人初のWCポイントを獲得した記念すべき大会となりました。

海和俊宏選手は1本目10位以内に入り2本目期待されましたが確か12位だったと思います。

日本がWCで記録を残し世界で戦えると認識できたレースがこの大会です。

 

1973年、1975年と2度の大会4レースに出場しました。

大雪でもレースを中止せず開催できたのは、全国からの役員と地元新潟県スキー連盟、湯沢町スキー連盟など私の所属する連盟の方々が昼夜を問わずコース整備してくれました。

その努力は日本人が世界に認められる完璧さです。

知っている人々が作ってくれたコースで自分の滑りが出来たことは選手として感謝、感激でした。

 

WCを見て将来の選手を目指す子供達が夢、目標を持ってもらいたいと思います。

2016年の苗場WCに沢山の子供やギャラリーがレースを見て興奮しました。

私もお客様と一緒にワインやビールも楽しみながらレースを観戦、日本人選手、外国人選手を応援しました。

2020年も苗場になると思います。

ぜひ、皆さんと一緒に世界最高峰のWCレースを応援に行きギャラリーとしてレースを楽しみましょう。

 

 

 

トニー・ザイラー氏とのツーショット写真が見つかりました。

苗場・女子コース急斜面の中間だったと思います。

インスペクションしていた私の上に来てジーと見つめていたとき知り合いのカメラマンに撮ってもらいました。

多分、私のスキーとパラブラックに興味があったのでしばらくこの状態が続いています。

カラー写真なのでウェアーの色が分かりますが、一つだけ共通点がありストックはオーストリア製です。

当時の日本製は折れやすくこのストックを使っていました。

(ストックと言ってもヨーロッパでは通用しません。ポールまたはステッキです)ね、ワカさん

 

もう一つ、ポールは竹で赤と青のフラッグが付いています。

私が小学校の頃は赤、青、黄色の3色でした。(笑い)

フラッグは顔に当たってレースに支障をきたすため廃止になり、プラスチックのポールが出てさらに可倒式になって今日に至っています。

 

トニー・ザイラー氏は1965年コルチナ・ダンペツオオリンピックにて回転、大回転、滑降の金メダルを獲得して初の三冠王を達成した偉大な選手です。この大会で猪谷千春氏は回転で銀メダルを獲得しています。

22歳で選手を引退後、映画俳優、歌手として活躍「黒い稲妻」「白銀は招くよ」は世界中でヒットし、日本映画「銀嶺の王者」にも出演しました。

映画を食い入るように見て一番感動したのは、小さなアコーディオンを弾きながら滑るシーンです。

こんなことが出来るんだー、と思わず叫びそうになったことを記憶しています。

 

1970年代はオーストリアの監督として国民の期待に応え、競技会の会議が紛糾したとき最後に意見を求められるほどスキー界では重鎮として知られています。

2009年に73歳で亡くなっています。(Wikipedia参考)

私が小学生から憧れ夢に見たスキーヤーはトニー・ザイラー氏でした。

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